「本当は」
みさと様
日中の湿気った空気を追いやるように、夕暮れ時の涼やかな風が吹く。
廊下を歩いていた神谷は少し立ち止まり、気持ちよさそうに顔に風を受けていた。
手にした盆が知らず斜めになったために、湯のみがたてた微かな高い音に我に帰ると再び廊下を行く。
目的の部屋に着き、素早く中の気配を伺った神谷はすかさず口を開いた。
「失礼します、神谷です」
そして、部屋の主の返事も待たずに障子をすっと開けた。
部屋の主――土方の何か言いたそうな表情が目に入る。
しかしそれには構わずに、神谷は先手必勝とばかりに一見穏やかな笑みを浮かべて言う。
「よろしければ、お茶をいかがですか?」
(なんだよ・・・押し売りみてえだな)
土方は神谷の一方的な口調と笑顔に文句の一つでも言いたくなった。
しかし、その行動がどこから来ているのか気になった土方は
「ああ、じゃあもらおう」
と答えた。
「それでは、失礼します」
神谷は一瞬ほっとしたような表情を浮かべると、部屋に入り戸を閉める。
「どうぞ」
文机の上で茶托がかたんと小さな音をたてる。
それを合図に、土方は今まで何となく握り締めていた筆を硯に置いた。
空いた右手が少し汗ばんでいることに気づき、ぎくりとする。目の前の神谷の動作がやけに緩慢に感じた。
どうやら茶の他にも何かを用意しているようだが、土方には神谷の手元を見る余裕は無い。
「はい、副長。お菓子もあるんですよ?疲れた時にはやはり甘いものが一番ですものね」
ひたすらにこにこと笑いながら、神谷は饅頭の載った皿を土方の目の高さまで持ち上げた。
土方は我に帰って、いつもの自分を取り戻す。
「俺は別に疲れてはいないぜ。それに、そもそも茶など頼んでもいないんだがな」
一番言われてほしくない台詞を言われて神谷は息を詰まらせた。
本当の目的は何なんだ、とでも言いたげな視線に負けじと再び笑顔を作る。
「副長はいつもそうやって無理をなさるんですから・・・だって、顔色悪いですよ」
「そんなことねえ」
「ありますってば」
だんだんとむきになる神谷とは対照的に冷静になってくる土方。
土方はまじまじと神谷を見詰めた。
頭に血が上っているのか、こういう時顔が赤くなるのはいつものこと。
それでも笑みをつくる余裕はまだあるようで、少しは成長したもんだと変に感心させられる。
「副長の代わりは誰もいらっしゃらないんですから、大事になさらないと駄目じゃないですか」
「・・・」
「・・・副長、ほんとは甘いもの好きなのに。私、食べちゃいますよ?」
「・・・」
土方はこちらが無言なのに関わらず、しつこいくらいに話し掛けてくる神谷を不思議そうに眺めている。
その間にも神谷の口は閉じる気配が無い。
土方はこのままでいてもきりが無いとでも思ったのか、文机に凭れさせていた身体をゆっくりと起こす。
それに気づいた神谷はちょっと言葉を切って少々の期待を込めて土方を見つめる。
しかし土方は、合点がいった表情を浮かべた後に俯き、肩を微かに奮わせるだけだった。
神谷はそんな土方の様子に、あからさまにむっとした表情を向ける。
笑うなら堂々と笑えばいいものをと、目の前の男を睨みつけていたその時。
土方が顔を上げ、肩で大きく息をついた。
「あのなあ、神谷」
「!」
名前を呼ばれると同時に、神谷は手首を掴まれ強く引っ張られた。
倒れこんだ先は目を開けなくたってわかる。
背中に回された温かい腕、馴染んだ香り。
神谷はそのままの姿勢でそっと土方の着物の袖を握った。
「構ってほしいなら・・・甘えたいならそう言えよ」
土方は部屋の隅を見つめて面倒そうに言う。
その台詞に神谷は少々身じろぎするが、腕の力は緩む気配が無かった。
でも、この熱くなった顔を土方に見せずにすむので却って都合が良かったかもしれない。
「・・・だって普通にそんなこと言ったら、副長は絶対意地悪するに決まってるじゃないですか」
「さあて、それはどうだろうな」
土方は悪戯っぽく笑うと、赤く染まった小さな耳に口を寄せた。
「今度試しに言ってみろよ」と小さな笑い声と共に囁かれて、神谷は無言で小さく肩を竦める。
そして、土方の胸に強く額を押付けた。
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