「・・・・・・本当にこれで良かったのですか?」
ふうと女は男の耳に息を吹きかける。
男はくすぐったいからか、罰が悪いからか小さく身じろいだ。
「彼女、私の正体に気がついていたようでしたよ」
「・・・・・・それはあるまい」
「そうでしょうか。あの人、貴方を見ながら、私のほうばかり見ていました。何かを伺うように、何かを調べるように、そう何かを探し出すような視線でした」
「考えすぎだろう」
「そうでしょうか」
女の問いかけに男は小さく鼻をならす。
隙間風に吹かれて行灯の灯が揺らいだ。
※
五年前慣れぬ土地で一から身を立てた京には、もういられなくなった。
たった、五年。
五年である。
この年月が長いのか短いのか。
将軍を守る為に、日々生と死のはざまを生きてきたというのに、昨年の末肝心の将軍が王政復古を唱えた。
その前から討幕の密勅が下されていた薩摩、長州を中心にそれらの勢いは日に日に増し、鳥羽・伏見以降撤退続きの日々となった。
「倒幕」はいつしか、「討幕」となっていたのだ。
上京するときは一歩一歩踏みしめて歩いてきた距離を帰りは厳しい風が吹く海を渡り戻ってきた。
怪我や病気の者は横浜の医学所へ動ける者は品川へ移動。
幕府から新たな屯所として与えられた元日高高鍋藩主の屋敷に、ある日その女はやってきた。
土方の許嫁だという。
応対に出たセイは土方に許嫁がいたことを初めて知った。
驚きで頭の中は無だというのに、口だけは何事もないように動く。
こちらから名乗り、相手の素性も聞き、あたりさわりのない話を何も動かぬ頭でかわしていた。
女は琴と名乗った。
色白で、細い首元が魅力的で、それでいて少し芯の強そうな土方好みの女だとセイは思った。
久しぶりに・・・・・・それこそ五年振りに土方に会えると緊張しているのか、始終手を両手で体の前で握り締めており、上等な衣に、新しい帯、焚きつけられている香も土方好みのもので、セイはその女の気持ちが同じ女として、痛いほど分かると同時に、逆に分かりたくないという複雑な気持ちを抱いた。
「土方は多忙を極めている身、貴女のことは伝えますが、必ずしもお会いできるとは限りませんので、御了承ください」
セイは心のどこかでこの女と土方を会わせたくないと思っている己に醜さを感じたが、こんなとき、どうしたら心が落ち着くのか分からない。
敵と剣でやり合う前の独特の高揚感を落ち着かせる事はできても、とうに女子を捨てた自分にはこんなときどうしたらいいのか分からないのだ。
琴は「一度でいい。一目でいい。元気な御姿が見られれば、それでかまいません。いつまででもお待ちしております」と長い間頭を下げた。
※
「おい、どこほっつき歩いていたんだ。この書類写文して、こっちのは燃やせ。あとかたもなくだ。それから、武具を調達しなけりゃならねぇ。これから 掛け合ってくるからお前も一緒に来い」
土方の部屋に入ると、こちらに顔も向けず指示を出される。
部屋は書類で散財していた。
「土方副長。副長にお会いしたいと申す者がおられます」
「あん?何だよ。この忙しい時期に。お前も福助のように手をついていないで、手を動かしながら、話せ。これが、燃やす奴だ。その文は俺に貸せ」
「・・・・・・はい」
セイは言われたとおりに、書類を土方に渡し、処分する文を重ねる。
「あの・・・・・・土方副長。その者は女性で、お琴さんとおっしゃるそうです。その方がおっしゃるには・・・・・・土方副長の許嫁だと。一目でもいいのでお会いしたいとそうおっしゃっていました」
何故だか急に泣きそうになった。
どうしてかは、分からない。
先程からひどく気持ちが落ち着かない。
自分は一介の副長付き小姓であって、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
幾度か契りを交わしたことがあるものの、それに変わりはない。
なのに、どうしてこんな気持ちになるのか。
・・・・・・胸が苦しい・・・・・・。
「琴」という名に、土方の手が一瞬止まった。
そんなかすかな事でさえ、気がついてしまう自分が恨めしい。
しばらく間の悪い時が部屋に流れた。
「もうすぐしたら日が暮れちまう。武具商へ行くぞ。お前も来い」
ダンと急に立ち上がると土方は、障子を開けた。
「お待ちくださいませ。武具商には、私一人で行ってまいりますので、副長はお琴さんにお会いしてきてください」
心にもないことを・・・・・・ともう一人の自分が嘲笑する。
「お琴さんは副長が江戸を発たれてから今日まで、ずっと副長にお会いしたくて今日という日を待ち焦がれて来たに違いありません。副長がお琴さんのことをどう思っていらっしゃるか、私には関係のないことではございますけれども、それでも一度だけでもお会いになってさしあげて下さいませ」
いい子ぶって・・・・・・ともう一人の自分が冷笑する。
「・・・・・・神谷」
「・・・・・・はい」
セイは目の前の畳をじっと見つめる。
「今は武具を少しでも集めて態勢を整わせることが先決だとお前も分かっているだろう。京の頃と違うんだ。お前一人行ったところで、ていよく帰されるのがオチだ。副長の俺が直接行かなきゃ、交渉すらしてくれねぇ。それを承知で『小姓』のお前はそういうのか」
セイは、ぎゅっと畳の目をむしる。
「行くぞ」
それだけ言うと、土方は振り返ることなく玄関へと向かった。
※
門を出ると琴が駆け寄ってきた。
それに合わせて、土方は足を止める。
「・・・・・・お久しぶりです。・・・・・・お元気そうで、何よりです」
「・・・・・・あぁ。お前も」
「お会いする前は何を話そうとずっと考えていましたのに、お顔を見た瞬間、言葉が頭から失せてしまいました」
恥ずかしそうに顔を背ける仕草が女らしいと土方の後ろでセイは思った。
「気が済んだか」
土方の低い声に琴がはっと顔を上げた。
「もう俺には会わぬ方がいい。この御時世、お互い良いことにはならぬ。許嫁の件も、家族が勝手に進めたこと。お前は遊びで俺と付き合えるほど器用じゃない。これからも俺からお前に言い交わすことはないから、もっと優しい男のところへ行くがいい」
「・・・・・・歳三・・・・・・様?」
一瞬呆けた顔をした琴は、次の瞬間には泣き崩れていた。
土方は振り返りもせず、足早に去っていく。
セイは迷った挙句、琴に一礼をして土方の後を追った。
※
「痛っ」
男は思わず手を耳にやる。
「ごめんなさい」
男の耳を掃除していた女は感情をのせずにつぶやいた。
「副長に許嫁がいらしたなんて、知りませんでした」
「もとはといえば、義兄と姉が勝手に進めたこと。俺は知らねぇ。許嫁なんて形だけだ」
きっとこうなることは土方も分かっていたにちがいない。
だからこそ、京に上っても決まった女を作らなかったのだ。
女や家族は自身にとっては柵(しがらみ)にしかならぬとそう思っているから、初めから琴と結ぶことは考えていなかった。
琴は自分よりも年上のように思えたけれども、きっと土方に一度も抱かれていないのだろう。
琴の初々しい仕草がそう自身の女としての勘にはたらきかけた。
ならば、幾度も腕に寄せられた自分は何なのだろう。
やはり数多の女の一人にすぎないのだろうか。
けれども、今更五年も待てる可愛い「女」にはもうなれない。
男に生まれてくれば、こんな想いを抱かずに済んだのに・・・・・・。
いつの間にか手を止めたままの女が気になり土方が見上げると、ぽつりと涙が降ってきた。
「・・・・・・神谷?」
柔らかな腿から頭を持ち上げた男に、女は「ごめんなさい」と顔を背ける。
「・・・・・・あれ?・・・・・・止まらない・・・・・・どうして・・・・・・」
しかめっ面をしようと思うも、次から次へと溢れて仕方がない。
両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いているセイに
「お前は最期まで俺の傍にいてくれるんだろ?」
と土方が困ったような顔で問いかけると、
女は泣きながら微笑した。
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