いつもはさわやかな目覚めなのに、今日は体に重さを感じのそのそとセイは起き上がる。
唾を飲むとちくりと喉の奥が痛んだ。
夕べは少し蒸し暑かったので、布団を蹴飛ばしてしまったのだろうか。
屏風の向こうを覗くと空の布団がそこにはあった。
もう土方は起床して顔でも洗いにいっているらしい。
いつもは小姓であるセイが土方を起こすので、土方よりも遅くに起きたのは本当に久しぶりだった。
どこか疲れのとれない体を叱咤し立ち上がる。
布団を片付け、自分も朝の身支度をせねばならない。
「明日は、忙しい日になるからな」
昨夜寝る前に土方から言われた言葉を思い出し、セイはふうと小さく溜息をついた。
※
「神谷、この書類近藤局長のところへ持ってゆけ」
「神谷、総司と新八にこの文を渡して来い。ついでに昼、俺の部屋に二人揃って来るように伝えて来い」
「神谷、この文は処分しろ。こっちはまとめておけ。それから今年に入ってから先月までの収支をまとめてくれ。大雑把でいい」
「神谷!」と声を掛けられるたびに、土方の傍に伺い用事を受ける。
当の土方もたすきがけをして、文机に向かっている。
昨夜黒谷へ行った際、不逞浪士を更に取り締まるようにと言われたらしい。
それを土方は、己の働きが足りないと会津側に思われているととった。
話を聞いた限りでは、会津側にそのようなつもりはなさそうなのだが、土方の事、そう言われては次に会うときは相手を唸らせるほどの結果を見せねばと
奮起し、そして、今に至る。
土方と一緒に黒谷へ行った近藤はそんな土方の性分を知っているので、苦笑している。
「歳よ、体は壊すなよ。お前が倒れては元も子もない」
そう、土方を労わりながらもやりすぎるなと釘を刺すのも忘れなかった。
「神谷!」と呼ばれる回数が増えると「副長!」と返答する回数も増える。
「土方副長、仰せのとおり、近藤局長へ渡してまいりました」
「土方副長、仰せのとおり、沖田先生と永倉先生に文を渡し、昼に副長室に来てもらうよう伝えてきました。昼食後に来られるとのことです」
「土方副長、この処分する文はこれから庭で燃やします。収支についてはすぐにとりかかります。大雑把とはいえ大体の内訳は書いたほうがいいでしょうか」
副長室はいつにもましててんてこまいだった。
セイは部屋の隅から自分にあてがわれた文机を持ってき、硯・筆・そろばん・そして紙を用意し、文鎮を置く。
そろばんを傾け、右の人差し指を横へ移動させ珠を整えると、パチパチとはじいていった。
商人の家ではなかったが、そろばんは一通り扱える。
はじいては、筆を走らせ、はじいては、筆を走らせる。
けれども、どうもいつもの調子が出ない。
はじく指を間違えてしまったり、位を間違えたり、同じものを二度も計算してしまったりと小さな間違いばかり続く。
やっぱり、調子が悪いのかしらと思うも、隊務は休めない。
何とか出来上がったときには、もう昼近くだった。
「御苦労」
土方は手だけ差し出し、セイの仕上げた収支のまとめを受け取る。
ふうとセイは息を吐く。
とりあえず言われた仕事は終わった。
押し入れてのふすまによりかかるようにして座る。
もくもくと仕事をしている土方には悪いと思うのだけれども、頭がくらくらして仕様がない。
こうして背を向けている間に小休憩しようとセイは思った。
庭からみえる空は快晴で、心地良い風が室内に流れてくるのに今の自分にはそれはどうでもよいことのように思えてしまう。
体がとてもだるいのだ。
あまり動いていないのに、背中に汗をかいた感触がする。
相変らず、喉が痛く声を出したくない。
涼しい風に誘われるように、少しだけ少しだけと念じつつ目を閉じる。
副長に声を掛けられたら起きなくちゃ。
それまで、もう少しだけ、もう少しだけ。
急に体が重くなったかと思うと意思に反してセイは意識を手放してしまった。
※
目を開く前に意識が覚醒する。
体が宙を浮いているような感じがした。
手足の節々が痛い。
それはしびれているようにも感じた。
起きようとして寝返りをうつと、声がかけられたような気がした。
ぼんやりした視界の中に見慣れた背中が一つ見えた。
黒くて広い背中。
「副長」と言ったつもりだったが、それは声にはならなかった。
乾いた口だけがその言葉の形に動いただけ。
もう一度声を出そうと試みるも、息が出たのみ。
再度声を掛けようとしたとき、その見慣れた背中はくるりと半回転した。
「起きたのか」
よっこらせと立ち上がり、こちらに近付いてくる。
「お前な、体調悪いのなら先に言え。突然倒れられたら迷惑だ」
男は腕を組み睨みつける。
「ごめんなさい」とかすれた声さえ出せず口だけ動かすセイに、土方はセイの前髪をくしゃりとかきあげると、
布団に寝かした。
「熱、大分あるな。喉、乾くだろう。何か飲むか」
差し出された冷えたお茶をセイは一口含んだが、顔をゆがめる。
喉が痛くてたまらない。
「茶、苦かったのか」と尋ねる土方に首を小さく左右に振り喉に手を当てた。
「あぁ、しみるか。・・・・・・あぁ、そうだ。ならば、いいものをやろう」
懐をしばしがさこそさせると男は女に目を閉じ、口を開けるように言う。
不思議そうな顔をする女は男が早くしろというので逆らう気力もなく言われたとおりにした。
コツン。
しばらくして口に入れられたものは、瞬時に甘みを感じさせる。
「飴?」
と口を動かすセイに、
「総司が昨日くれた菓子だ。あいつがくれたものでも役に立つことがあるもんだな」
「全部やる」と紙包みを手に握らせた。
「いいのですか」と口を動かす女に
男は笑って頷く。
いつもは怒って、怒鳴って、睨みつけるばかりの土方の姿が今は見られない。
手ぬぐいを絞って額の上にのせてくれ、すいのみを口に運び飲ましてくれる。
汗をかいているのなら着替えるかと手伝うそぶりをみせたので、さすがにそれは大きく首を振って
断ったが、それ以外は土方にされるがまま。
体が重く思うように動かないということもあるが、何故だかこのまま土方に甘えたいという気持ちを抱いた。
男の珍しい優しさに触れているからか、発熱で心拍数が上がっているからか、胸が高鳴る。
もう少しこの優しさを感じていたいと思ったとき、男がもう寝るようにともう一度額の手ぬぐいを変え、またいつもの文机の前の定位置に戻っていった。
残念な気持ちが満たされる。
女と露見して、罰を覚悟で全てを告白した次の日、「昨夜は久々に酒を飲んで酔っていた。何も覚えていない」と言ってくれた時以来に感じた
優しさのような気がする。
いつも優しいあの人も好きだが、たまにしか見せてくれない優しさを持っているこの人の存在が次第に大きくなってきている。
いつも触れることの出来ない優しさだからこそ、たまにその優しさに触れると対応に困ってしまう。
どうしてこんな気持ちを抱くのかしらと、黒い背中を見つめ、そして目を閉じた。
※
三日続いた熱は漸く下がり、セイはまた小姓として副長室を右往左往して仕事をこなしていた。
「神谷!」と怒声にも似た声が掛けられるたびに、「はい、只今!」と土方の傍にいく。
掃除も洗濯もゆるりと出来ない。
「これを至急、書き写せ。それからこの報告書の捕縛者数をまとめろ」
手渡された書類は思った以上の厚さがあった。
「・・・・・・はい」
ずるずると自分専用の文机を持ち出し、土方の後ろに平行となるようにセイは座る。
墨を磨りながら、前に見える黒い背中をじっとみる。
あれ以来、どうも土方の一挙一動が気になって仕方がない。
「風邪は治ったけれど、恋わずらいにかかってしまったかしら」
セイは妙に真面目な顔をしながら、あの日渡された飴を口の中で転がした。
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