はばかりに行きたくて起きたセイの視界に入ったのは、廊下に座る土方だった。
暗くてよく見えないが、仕草から酒を飲んでいるようにみえる。
そっと息を潜めて近付く。
土方はちびりちびりと杯を口に運んでいた。
物憂げな雰囲気がうっすらと伝わってくる。
昼間の事を気にしているのかしらとセイはふと思った。
※
「だから、山南さんのいうことはお利巧な者の考え方さ」
「土方君。人は感情のある生き物だよ。からくり人形ではないんだ」
「だが、武士とは己の感情を殺してせねばならんときがある」
「それが今回のことだというのかい」
副長室から聞こえてくる話し声。
落ち着いた山南の声に比べ、土方は早くも息を切らし始めていた。
井戸端にまでその大声が聞こえてきて、平隊士一同顔を見合わせる。
どの表情も「またか・・・・・・」と語っていた。
そんな中、セイは素知らぬふりを装い、水を張った盥の中で洗濯をする。
「土方副長はいつでも誰にでも厳しいな」
「しかし、俺は山南副長の方が好きだ」
「同じ副長職でもどうしてこうも違うのか」
「馬鹿言え。『同じ副長職』かよ。土方副長の方が断然力的に上だろう」
「山南副長もお辛い立場だな」
「おい。もうそのへんでやめておこうぜ。何かあったらすぐこれだもんな」
一人の隊士が腹を斬る仕草をした。
「いや、副長侮辱は士道に背くとかいってこうだぜ」
別の隊士が首を斬る仕草をする。
そんな会話を聞きながらセイはゴシゴシと洗い続ける。
昨夜の斬り合いでついた血しぶきがなかなか落ちないのだ。
セイは先日知った。
土方が山南に対してどう思っているのかを。
総司から知らされた豊宝宗匠の句は「土方副長」よりも素直に気持ちが表されていた。
しかし、今この場でそれを隊士達にいうのは憚れる。
なかなか落ちぬ血痕以外の何かを落とすようにセイはただ無言のまま手を動かした。
※
月夜をじっと見ている土方の動きが止まった。
何かを思いつめているような感じではなく、むしろどこか放心しているような雰囲気。
闇夜を照らす月を見て、何を想っているのだろう。
太陽の光を借りて闇夜を照らす月を見て、何を想っているのだろう。
土方は柱に寄りかかっていた身体をそのまま廊下に倒した。
両手を頭の後ろで組み、まだ尚月を見ている。
この姿が本当の土方の姿なのだろうか。
その土方がいきなり飛び上がるように身を起した。
セイは自分のことが露見したのかと一瞬肝を冷やし思わず目を伏せたが、
そっと目を開けてみると、そこには副長が二人いた。
「・・・・・・山南さん」
とでも声を掛けているのだろうか。
土方が罰が悪そうに頭を掻いている。
羽織を差し出す山南に手を振る土方。
「そんなところにいると風邪引くよ、土方君」
山南の小さな声がセイの耳に届く。
「私も月見酒にご相伴させてもらってもいいかい」
山南は土方の隣に腰を下ろす。
「・・・・・・うん。・・・・・・うん。・・・・・・そうだね」
山南の声しか聞こえてこない。
土方の声も聞こえてくることは聞こえてくるのだが、何を言っているのか聞き取れぬぐらい小さいのである。
「・・・・・・うん。・・・・・・うん。・・・・・・分かっているよ。何年間の付き合いだい、僕達は」
山南の最後の言葉に土方はふいっと顔を背けた。
「・・・・・・喧嘩するほど仲が良いっていうよね。・・・・・・でもこれは男女の仲だけのことかな?」
山南のするりと心に染み入るような声色がそっと闇夜を奏でる。
土方は無理矢理山南の手に杯を持たせ、酒を注ぐ。
不器用で照れ屋な土方に出来る精一杯の山南の問いに対する応えだった。
ふいに涙が出てきてた
どうしたのだろうか、次から次へと雫が止まらない。
セイは声が漏れぬよう、うずくまる。
この二人の本来の姿であろう様子が、この月夜の下で見られて嬉しかった。
山南が土方に杯を差し出すと、何も言わず土方が徳利を傾けた。
この二人の本来の姿であろう様子を、何故昼間に出さないのか。
出さないのではない。出せないのか。
気配を感じ振り返ると総司が立っていた。
セイにふんわり笑うと、二人の副長を総司はじっと見やる。
一体いつからそこにいたのだろう。
とんと気配が感じ取れなかったが、きっと最初からずっと二人の様子をそしてそんな二人を遠くから見ているセイを見ていたのだろう。
「神谷さん」
総司は視線を二人から外さぬまま口を開いた。
「野暮なことはおよしなさい。さぁ、私達は部屋に帰りますよ」
さも今来たかのように総司はそう言うと、くるりと背を向けた。
「沖田先生」
「はい?」
総司は振り返らない。
「私は土方副長も山南副長も二人の副長が大好きです」
セイがそっとつぶやいた答えに、総司は俯きながらそっと嬉しそうに笑んだ。
※
山南切腹後の夜。
セイはまたあの時と同じ光景を見た。
月に向かって一人で酒を飲んでいる土方を。
外で近藤と飲んできたはずだが、まだ酒を口に入れていた。
近藤の姿は近くに見えない。
先に床に就いたのだろうか。
それともわざと土方を一人にさせているのだろうか。
あの日と同じように一人でいる土方。
だか、羽織を持ってきてくれる人はもういない。
しばらく月を眺めていた土方が、そっと杯に酒を注いで、トンと置いた。
月に捧げるかのように。
太陽の光を借りて闇夜を照らす月に向かって、土方は杯を交わした。
セイはあの日と同じように声を漏らさぬよううずくまる。
いつだったか、山南が笑いながら言っていた。
「いつもは冷静な土方君が僕にだけは真正面から向かってきてくれる。それはそれで彼が本気で僕と付き合ってくれていると感じるから
とても嬉しく感じるよ。たまにあまりにも彼がむきになるものだから、弟のようだと可愛く思えてしまう時があるが、これは内緒だよ」
溢るる涙がどうしようもなく止まらない。
声をあげては気付かれると思いながらも、嗚咽が止まらない。
ただ、頭に浮かぶはたった一つの素朴な句。
土方は何を思うでもなくじっと月をみやる。
ふと頭の中に昔言い合った言葉が浮かんできた。
「だが、武士とは己の感情を殺してせねばならんときがある」
「それが今回のことだというのかい」
気付いたら視界が歪んでいた。
久々に目頭が熱くなった。
泣いたのは何年ぶりだ。
いつから自分は泣かなくなった。
手にしている杯の酒に一つ雫が落ちたのを大きな月は静かに照らしていた。
セイは土方を見ながら、土方は月を見ながら心の中でそっと詠む。
「水の北 山の南や 春の月」
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