どんよりとした雲に降りしきる雨、そしてじっとりと肌にくっつく湿った衣。
雨が嫌いというわけではないが、梅雨の湿度の高さには辟易する。
セイは足袋がびしょぬれになっていることを気にしながら、目的地へ向かっていた。
手には大事そうに小さな風呂敷が抱えられている。
中には先程さと乃の為に買ってきた紅の入った小物があった。
さと乃は化粧らしい化粧もせず、ひっそりと住んでいる。
惚れた男二人は片や殺され、片や切腹してもうこの世にはいない。
辛い恋を二度も経験したさと乃は同年代の女子と比べても地味ななりだった。
つい先まで源氏名を使い着飾っていたからだろうか、よけいにそう思う。
セイは月に一回さと乃のところに訪れるときには、必ず何かしらさと乃に似合いそうな装飾品を御土産として持っていっていた。
セイにとって、さと乃はなくてはならない存在である。
月に一回、武士から女子に戻れる大事な時間。
さと乃は良き相談者であり、良き姉であった。
幼くして母親と死別し、男所帯のなかで育ったセイにとって、年上の女は時折母のような温かさをも感じる。
・・・・・・もうすぐ、お里さんに会える・・・・・・。
セイは歩を早めた。
※
「お・さ・と・さ〜ん。愛しの清三郎が来ましたよ〜」
ガラガラと戸を開け、傘を折りたたむ。
さと乃には、今日尋ねると昨日のうちに文を出していた。
出来ることなら昨日さと乃の元へ行きたかったのだが、どうしても外せぬ隊務があり今日となってしまったのである。
正坊は屯所に出る前、八木邸で見かけたので今はさと乃一人だろう。
濡れた肩や手先を手ぬぐいで拭き、部屋内のさと乃を捜し、そしてセイは固まった。
確かに目の前にいつも通りさと乃はいた。
だが、さと乃以外にも人が居たのだ。
薄い肌着しか身につけず、胡坐をかいていたその者はセイの姿を見て、驚きを隠さずに目を大きく見開いた。
「あの、あのな、清三郎はん・・・・・・」
慌てて何かを話そうと近付いてきたさと乃を男からかばうように背中にまわし、セイは目の前の男を剣呑とした眼差しで睨み付ける。
「・・・・・・彼女は私の大事な女(ひと)です。その私の女に何か御用ですか。貴方は一体ここで何しているんです・・・・・・?」
右手をそっと刀の柄に乗せ、静かに放たれた低く冷たいセイの言葉が、その場を支配した。
※
外は先程にも増して雨が激しい音を立てている。
さと乃からお茶をもらい、一口含んだセイは据わった目で、前の男を尚も睨み付けていた。
男は罰が悪そうに、しきりに頭を掻いている。
そんな様子をセイは冷ややかに見ていた。
先程まであったお馬による鈍い腹痛など、今では感じない。
さと乃の家にどうしてこの男がいるのかということで頭が一杯である。
見たところさと乃の身に何かあったようには感じられないが、それでも女一人の家に男が上がりこむなどあまりにも不躾ではなかろうか。
重い空気が部屋に漂う。
さと乃はこんな恐い顔をするセイは初めて見たと思いながら、おずおずと事のあらましを話し始めた。
※
文が届いた昨日のうちに正坊を八木邸に預けてきたさと乃は、早くセイが来ないかと待ちわびていた。
耳を澄ませるも聞き慣れた可愛いらしい足音は聞こえ来ず、代わりに雨音だけが響いてくる。
急に降りだした雨に通りを往来する人影もまばらで、時折駆ける足音が聞こえてくるだけである。
さと乃は山南と正坊の父母を祀っている仏壇に手を合わせ、早くセイが来るよう祈っていた。
そうしてからどのくらい経ったのだろう。
急に外が騒がしくなった。
男達の怒号と罵声とそして喧騒。
何を言っているかはよく聞き取れないが、言葉の訛りから京の者ではないようだった。
刀を鞘に収める高音が耳に届く。
いつからか京の町は治安が乱れており、いつもどこかで血が流れる毎日だった。
さと乃は息をひそめるように仏壇の前で早く浪士達が家の前から離れてくれるよう頼んでいた。
その願いが通じたのか、少しすると浪士たちは去っていき、さと乃はほっと胸を撫で下ろした。
島原にいるときも物騒な客と何度も会った事があるが、そういうときは同じ客である腕の立つ剣客が追い払ってくれた。
そういえばいつだったか似たような事が山南とあった。
落ちそうになる自分を支えてくれた逞しくも優しい手。
竹刀だこがあり、かなりの腕の持ち主なのに、そんな事とはおよそ無縁のような穏やかな面差し、そして優しい性格。
出合った時からそうだった。
一両小判を落としたのに、自分には一両を持っていた覚えがないという。
後にそれは同士が山南の袂に入れたと分かったのだが、後日丁寧にも自分が袂に縫った一両を返しに店まで足を運ぶ・・・・・・そんな人だった。
何故だろう、随分と前のことが昨日の事のように思えるのは。
懐かしく切ない気持ちが心を満たしていたさと乃だが、突然玄関叩く音で現実に返された。
「怪我をした。済まぬが手当てをしたいので、酒を貸してくれ」
言葉に訛りは見られなかった。
誰かに追われてでもいるのか、潜めた声で繰り返し問いかけてくる。
助けようか、でも厄介ごとに巻き込まれるのは恐い。
迷って山南の位牌を見ると、優しい声で「助けておやり」と聞こえてきた気がした。
さと乃は山南の位牌を胸に抱き、そっと玄関に手をかけた。
※
「ふ〜ん、成程。大体の事情は分かりました」
セイはずずっと茶を飲む。
「御武家はん、えらい腕から血を流してはって。一応、消毒して血止めはしたんやけれど、やっぱり、うち、こういうことには素人やし。おセ・・・・・・清三郎はん、見てくれへん」
さと乃は両手を合わせて頼む仕草をする。
セイはふぅと大きくため息をつくと、男に腕を出すように命じた。
大した傷ではないという男にさと乃は「清三郎はんは、医者の息子だったんどす」と話し、腕を差し出すよう促す。
そんなさと乃にしぶしぶながら男は腕をセイに差し出した。
さらしを解くと、紅くにじみ出ている太い線が肌に走っているが、傷の深さのわりには大した事はなさそうである。
熱も持っていないし、化膿しているふうでもない。
セイはほどいたさらしを再度巻きつける。
「どう?清三郎はん」
心配そうに覗き込むさと乃に心配はないと告げた。
「ところで・・・・・、貴方はいつまでここにいるつもりなんです?」
セイは尚も咎めるよう睨み付けながら男に問いかけた。
「まだ雨が激しいし、もう少しいてもろうたら?着物もまだ半渇きやし・・・・・・」
男の代わりにさと乃が答えたが、セイは聞こえぬふりをする。
「しかし、私的には今すぐにでもお暇してほしいのですがね。久しぶりに自分の女の元へ帰ったら、肌着になっている男がいる。まぁ、事情は分かりましたけれども、良い気はしませんね」
突き放すように言うセイにさと乃は「でも・・・・・・」と付け加えた。
「お武家はん、江戸からの長旅で先日京にこられたばかりなんよ。何でも、道に迷っていたら浪士達にからまれたとか。清三郎はんが来るまでしばらくお話していたんやけど、誠実そうで、とても物腰の柔らかいお方なんよ」
「・・・・・・ふ〜ん・・・・・・」
「ご事情で江戸で好いた女子と生き別れになったらしいんやけれど、その女子はんとうちが何や似ている言われて・・・・・・。どことのう面影が似とるやって」
「・・・・・・へぇ・・・・・・」
「生き別れになった方ともうお会いきるか分からないから、せめてもう少し面影が似とるうちの傍にいたいと言われて・・・・・・」
「・・・・・・ほぉ・・・・・・」
次第に凶暴ともいえる目つきになるセイの様子に男は冷や汗をだらりと流していた。
「もう、清三郎はんったら、こちらの方に失礼どすえ」
諌めるようにいう、さと乃にセイはにこりと微笑がえす。
「ねぇ、さと乃さん。こちらの方の御名前何ておっしゃるの?」
「えっ?・・・・・・そういえば、お名前を聞くのを忘れとったわ。失礼でなければお聞きしても宜しいですか」
男はセイとさと乃を交互に見、言い及んでいる。
そんな男にセイは極上の笑みを浮かべた。
「あら、御自分の御名前もお忘れになったのですか・・・・・・副長?」
「・・・・・・へっ?」
素っ頓狂な声を上げ、手を口に当てたさと乃はセイとその男を見比べた。
「おさとさんも、人がいい。何が生き別れになった女と面影が似ているって?何がもう少しおさとさんの傍にいたいって?
そんな歯の浮くような言葉、信じるなんておさとさんらしくない。はっきり言ってさしあげましょうか。この人の名を・・・・・・」
あまりの剣幕に男は、普段の威勢はどこへやらもはやおよび腰になっている。
「・・・・・・ねぇ。『土方歳三』さん?」
「私、知りませんでした。貴方が先日江戸から京に来られたなんて。おかしいですねぇ、よく屯所では茶をもってこいだの、文を届けてこいなど怒鳴り声で私に命令していたのは、じゃぁ一体誰なのでしょう。貴方のそっくりさんですかねぇ。でも案外そうかもしれませんね。だって、おさとさんによると、貴方はとても『誠実そうで、とても物腰の柔らかいお方』らしいですから」
「五月蝿ぇ。ここがお前の女の家だと知ってりゃ、入んなかったさ」
「そうでしょうか。信用できませんねぇ。逆に寝取ろうと思われるんじゃないですか?おさとさん美人だし」
「いくらなんでも部下の女をとるか!」
「それはともかくとして、きちんと説明してくださるんでしょうね」
「・・・・・・・・何をだ?」
「人の女をくどいていたんです。幾らでもお尋ねしたいことはありますよ?」
・・・・・・にこりと後光が差しそうなほどの笑みを向けられ、土方はごくりと唾を飲み込んだ。
その日、遅くまでさと乃の家は明かりが灯っていた。
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