人は誰でも、心の中に器を持っている。
嬉しいことや辛いことを経験するたびに、その器は大きくも小さくもなってゆく。
器には気づかぬうちにどこからか雫が落ちてくる。
その雫は浄化の無色だったり、情熱の赤色だったり、幸福の桃色だったり・・・・・・。
そして、負の感情の漆黒だったりする。
大概のことでは器は雫で満たされない。
それ故に人は誰でも際限なく幸せを求め、傷ついた後には立ち直ることもできる。
だが・・・・・・もし・・・・・・
器が闇色に満たされてしまったら、どうなるのだろう。
行き場をなくした雫はどこへ落つるのだろう。
「神谷は俺の小姓につけることにした」
紋きり口調で放たれた言葉が、深夜の静けさを貫いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
セイが土方付小姓となる。
その配属移転の知らせをみた隊士達は、驚きと同時に一種の憐みにも似た感情を抱いた。
(おい、神谷が副長の小姓だってよ)
(えっ?副長の?そりゃ、色々な意味で大変だな)
(あの方の元では、命がいくつあっても足りねぇだろうからな)
(順応性のある子とはいえ、いくら何でも鬼と四六時中一緒の部屋とはなぁ)
「おはようございます!」
平隊士達のひそひそ話を中断させたのは他でもない、今まさに話題にのぼっている当人だった。
「あぁ、お早う。ところで、神谷・・・・・・」
「はい?」
「・・・・・・あれ何だけれどよぉ」
そう言って、目の前に張り出されている移転通知の紙を指差す。
心配そうに自分を見つめてくる隊士達に苦笑しつつも、セイは大丈夫ですよと返した。
「鬼とはいえ、取って食われるわけでもないし、案外鬼の弱みをつかむことが出来たりして楽しくなるかもしれません」
「でもよ、お前せっかく沖田先生と一緒に働けるって、喜んでいたのに」
「えっ・・・・・・」
「おい、山川」
別の隊士が小声で諌める。
しかし、それを気にした風でもなくセイは、
「何事も修行と心得ていますから。一番隊の皆さんとは再び離れちゃいますけれども、今度戻ってきたときにはまた宜しくお願いいたします。その時には、きっと鬼の弱点をお教えしますよ」
そうそう、早速副長にお茶を持っていかなくちゃ・・・頭を下げ軽い足音を響かせてゆくセイの姿に、隊士一同顔を見合わせる。どうやら自分たちが心配するまでもなくセイはセイで小姓になったことを前向きに捉えているようだ。
「あいつらしいな」と談笑する隊士達から少し離れたところで、一部始終その様子を見ていた者がいたことに誰も気づくものはいなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「神谷は俺の小姓につけることにした」
昨夜、夜番の任務を報告し終えた総司の耳に届いたこの言葉には、何の感情ものせられていなかった。
状況がのみこめていないのか目を大きく見開いたその表情は、二十歳すぎの成人男子にしてはあまりにも童顔で、そんな総司に土方はちらりと目をやる。
「山南さんから、あいつの仕事能力を聞かされて、正直欲しくなった。お前も奴を一番隊に戻したことをあまり良く思っていねぇみてぇだし、丁度良いと思った」
驚く暇も与えず、淡々と言葉を紡ぐ。
「一番隊は何だかんだいって粒がそろっている。神谷が抜けたところで別段不都合はなかろう。むしろ、お前も集中して任務につけるんじゃねぇか。話は以上だ」
無表情に話すだけ話しくるりと背を向け筆に墨を含ませた土方に、漸く話の展開についてゆけた総司が慌てて声をかけた。
「ちょっ、ちょっと、待ってください。そんな、急に言われても神谷さんだってきっと困りますよ」
「神谷には、昼話した」
「えっ、神谷さんからそんなことは一言も・・・」
「お前には俺から話すと言ったからだ」
「・・・それで、・・・神谷さんは承諾したんですか?」
「副長命令といえば否とはいえまい」
「可哀想に。貴方の元で働くのは不本意でしょうに」
いつもと変わらぬ口調の中に幾分か非難と冷たさを含まれていることを敏感に嗅ぎ取った土方は「ほう」と如何様にもとれる言葉を返す。
「まぁ、こちらとしてもあの生意気童が小姓とは不本意だが、能力は欲しいからな。お前もあいつがお前の隊に戻ったとき、賄い方におきたがっていたそうじゃねぇか」
息を飲む総司に、「お前の配下が先日廊下で話していた」とにやりと続ける。
「そりゃ、あの子はまだ不十分なのに、勢いだけはあるから。周りが見えていないことがあるから。ここのところ、隊務の質は厳しくなっていますし小姓という安全な場所にいられるのなら、私としても肩の荷が下りる気持ちがあるのは正直なところとしてありますが・・・・・・。」
「ふん、随分と兄貴面になったもんだ」
「あの子が入隊してきたときに、誰かさんに世話役を仰せつかりましたからね。もともと、私は下が欲しかったんですよ。姉上や近藤先生は優しくて大好きだけれど、誰かさんからだけはよくいじめられましたからね。私に下が出来たら、絶対誰かさんのような兄上にはならないとよく思ったものです。いまでは、その誰かさん、いじめっ子どころか鬼になっちゃいましたけれど」
「馬鹿言え。その鬼を手玉にとって、毎日からかいにくるお前はどうなんだ」
「嫌ですねぇ。私は今でもか弱い弟分ですよ」
「はん」
「さすがに泣くことはもうないですけれど、だからといって強くなったわけではありませんよ。寂しがり屋で甘えん坊の宗次郎は健在です。これから、神谷さんと一緒に甘味処へ行けないと思うと、淋しくて淋しくて」
よよよと袖を目頭に寄りかかる総司を払いのける。
「お前と無駄話している暇はねぇんだ。とっとと部屋に戻れ」
拳をあげ怒鳴る土方を、総司ははいはいと笑いながら頷き、障子に手をのばした。
「土方さんこそ、早く寝なきゃだめですよ。あなたが望んだお小姓さんはただものじゃないんですから。不摂生ばかりしていると甲高い声が飛んできますよ」
「鬼の声の方が強い」
「さぁ、どうでしょう」
障子に手をかけているもののなかなか退室しようとしない総司に土方は睨み付ける。
「まだ、何かあるのか」
「いいえ。ないですけれど・・・・」
「けれど、何だ」
「あの子が急にあなたの小姓となることに、ちょっと引っかかりを覚えただけです」
「・・・・・・どう言う・・・意味だ」
片眉を上げ、低い声で問いただす。
気に入らないことがある時に無意識にする土方のこのクセを総司は目ざとく捉えたものの、見て見ぬふりをしてくるりと背を向けた。
「分かりません。なんか、胸がムズムズするというか。でも、たいがいこういうときって不思議なことに自分にとって良いことは訪れないんですよね」
土方は無意識に総司の背中から視界をはずす。
「あの子は、確かに頑張り屋さんで強い子だけれど、その実、とても寂しがり屋さんで泣き虫さんですから。貴方は知らないでしょうけれど。だからあまり私のときのようにいじめちゃだめですよ」
お休みなさいという言葉とともに障子が静かに閉められる。
セイのことを何でも知っているというような総司の物言いに、土方は書きかけの紙を勢いよく丸めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「お茶をお持ちしました」
両手をきちんとそろえて、障子を開ける姿をちらりと盗み見る。
セイが女であることを確信し小姓に命じたのは昨日。
以前にもお茶を淹れてきてくれた事はあったが、こう何というか改めて自分の小姓として持ってきてくれたのだと思うと妙に照れくさい。
女だとうすうす感づいていたとはいえ、まぎれもない事実と知った今、セイを一介の武士とは見られなくなっていた。つい先日まで小憎らしい童の神谷清三郎という男として認識していたのに。一晩でこうも考えが変わるものなのか。その原因がセイではなく、自分の心にあることも不承不承承知していた。
「どうぞ、あたたかいうちに召し上がってください」
その言葉に、さも今セイが入室したことに気づいたかのように、おもむろに筆を置く。それに合わせて笑顔と共に湯飲みが差し出された。
「・・・・・・茶の葉を変えたのか?」
「え?分かります?さすがは副長。実は山南先生お気に入りのお茶葉なんですよ。昨日、副長の小姓になることを伝えにいったとき、これを副長にって言われて。しっかりお勤めするようご教授いただいて参りました。」
「総長の具合は?」
「最近は落ち着いていらっしゃいます。でも、副長に迷惑をかけてばかりで不甲斐無いといつも気にしておられます。たまには総長室へ遊びに行かれたらいかがですか?」
「断る」
「・・・・・・やっぱり噂通り副長は山南先生の事がお嫌いなのですか?」
小首をかしげながら遠慮がちに尋ねたセイの笑顔が曇る。
「そうじゃねぇ。総長はともかく、あそこには亡霊が住まっているから嫌だ」
やや早口に放たれた言葉がセイの笑顔を戻させた。
「なるほど。確かに。それを聞いて安心しました。総長は副長のこと大好きですから、副長も同じ気持ちだと知ったらきっと喜ばれることでしょう。それにしても参謀を亡霊とは、副長らしいというか、言いえて妙だというか」
口に手をあててコロコロと笑う。
今までこんな間近でこのような無邪気なセイの姿を見たことがあっただろうか。
いつもは、必ず傍に総司か斉藤がいた。
二人が傍にいるときのセイは、無邪気な表情をする。
総司のときは少しはにかんだ様な、斉藤のときは心から信頼している様な、そんな表情。
そこへ自分が現れるとあからさまに嫌そうな顔をし、二言目には口達者な物言いをしてくる。いつも眉を吊り上げていた。いつも頬を膨らませていた。そんなセイの笑顔が今身近にある。手の届くところにある。
「あぁ、もうお腹が痛い・・・って、副長、怒っちゃいましたか?」
まさか見とれていたとは言えず、土方はフンと鼻を鳴らした。
「おい。ありゃ何だ・・・」
話の矛先を変える土方。
「はい?」
「だから、何だあの塊は」
土方の視線の先にはお茶をのせてきた盆に盛られたお守りの山。
「あっこれですか。鬼副長の小姓となった私に皆さんからのお餞別です。こっちの身体安全は山川さん。この健康成就は佐々木さん。それからこの身代わりの札は小平さんだったかな。それでこの木彫りのお仏像は・・・・・・」
「・・・もういい」
「普段の鬼っぷりの結果ですかね。お守りを渡す代わりに南無阿弥陀仏と唱えてくださる方もいて。ふふふっ、ここまでくると鬼副長も本望でしょ?」
睨み付けるも効果は無く、却ってセイの笑いを助長させてしまう。
「さて、鬼副長殿。小姓の私めは何をお手伝いしたらよろしいのでしょう」
たすきがけをしてやる気満々のセイに何も無いとは言えず、とりえず部屋の掃除を頼んだ。
「心得ました。お掃除なら大得意です。原田先生のお部屋と違って、副長のお部屋はきれいですから、きっと楽チンですよ。まずは道具を持ってこなくちゃ」
そう言って腰を上げたセイだが、コホンとわざとらしく咳をすると土方の真正面に向き合う。
三つ指をつきながら、
「土方副長。本日から不肖神谷清三郎が貴方様の小姓を務めさせて頂きます。若年者故行き届かぬ面もあるやに思いますが、どうか寛大なお心でご指導宜しく御願いいたします」
深々と平伏するセイに意表をつかれた土方は不覚にも上ずった声で
「あぁ、こちらこそ、宜しく頼む」
とつられて軽く頭をさげてしまう。
そんな土方を意外なものを見たとセイは内心思いつつも、
「けじめはけじめですから」
とにこりと微笑んだ。
朝日のせいか土方の耳が幾分か赤くなっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
土方━神谷の組み合わせは最初こそセイに同情の眼差しが向けられたものの、次第に浸透していった。副長室から時折、怒鳴り声と甲高い声の掛け合いが聞こえてくるが、これはもはや愛嬌というもので、山南などはそれを耳にする度に穏やかな笑みを浮かべている。原田たちも「鬼と阿修羅のどちらに軍配があがるか」と周りの平隊士も巻き込んでその都度かけを興じているようだ。
また、仕事能力が上がったと幹部たちは感じていた。セイは字の読み書きも出来、珠算も使える。のみ込みも悪くなく、元来気が利く性格でもあり、小姓として立派に役を果たしている。
誰もがこの似た者同士のコンビを好意的に受けいれている中、一人ため息をついている者がいた。
江戸のそれと比べるとゆるやかな京の往来を眺めながら、口を動かす。
手にはお団子。
いつもの時間に、いつものお店で、いつもの御菓子。
だが、いつも隣で共に甘さを味わってくれていた人は今日もいない。
「ふぅ」
無意識のうちに深いため息がこぼれる。
お腹は満たされても、心が満たされない。
時間が経つのも遅く感じる。
一度、嫌がる斉藤と共に甘味めぐりをしたが、やはり何かが足りなく。
幾分か冷えたお茶を飲みながら総司は空を見上げた。
セイのことを思えば、小姓という位置にいるのは良いことだ。
土方も言葉には出さないが随分と助けられているようで、以前に比べて顔色もよくなり目に隈が出来ることも少なくなった。
何一つ悪いことは無い。
だが・・・・・・
「・・・・・・土方さんばっかり・・・・・・」
・・・・・・・・・・ピチャン・・・・・・・・・・
小さな小さな雫が心に波紋を生じさせた。
昔からそうだった。
自分の欲しいものは何でも持っていた。
敬ってやまない近藤との距離も土方にはかなわない。
頭脳明晰で勘も働き、何事もそつなくこなす。
いささか腹の立つ物言いをしてくることはあるが、内容は的確だ。
短所のはずの不器用さが、彼の性格からか周りの者を引き付ける力となっていた。
そして・・・今・・・・・・・・
セイの隣にいる。
・・・・・・・・・・ピチャン・・・・・・・・・・
黒い雫が心の奥底に落つる。
何だかんだいいながらも、自分はセイに好意を抱いていた。
それは愛とか恋とか言葉で表せるほど単純なものではなく、もっと深いものだと感じている。
あの子の命を助けたのも、
あの子の正体を知っているのも、
笑顔の向こうにある寂しそうな顔も、
怒った顔の向こうにある泣き顔も、
人知れず汗を流して歯をくいしばっていることも、
人知れず涙を流して成長していることも、
しっかりしていそうで意外とそそっかしいところも、
素直でいてそうで意外と意地っ張りなところも、
幼少の頃の可愛らしいあどけなさも、
近頃頓に増してきた艶さも、
・・・・・・全部自分だけのものなのに・・・・・・
・・・・・・・・・・ピチャン・・・・・・・・・・
いや、もうそれは過去形なのかもしれない。
土方の事だ、そんなセイに気づくのは早いだろう。
まさか女子だとは知れていないと思うが、それでもいつかは露見する。
もしかしたら、全てを承知の上で手元においたのかもしれない。
「沖田先生」
目の前にはセイの笑顔。
ほっとして手を伸ばした刹那、セイは遠ざかってゆく。
真っ黒な闇の中に吸い込まれてゆくセイ。
次の瞬間、セイは三つ巴の黒い羽織に覆われていた。
手を差し出すも届かず。
大声で呼びかけるも届かず。
そして、羽織に纏われたままセイは視界から消えていった。
・・・・・・ピチャン・・・・・・・・・・・・ピチャン・・・・・・
もし、自分が隊を出ろと言ったら、今でも貴女は泣きながらこう答えてくれるのでしょうか。
「そんな事言わないでください。バレるまで一日でも一時でも長く沖田先生のそばにいたいもの・・・・・・」
男は目を閉じた。
漆黒の雫は少しずつ、しかし確実に胸の器を満たしていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
無意識の下に雫は器に溜まってゆく。
それは人が嫌なものから目を背けようとするからだろうか。
だから器が闇色に染まりゆく時、気のせいだと杞憂なのだと思い込もうとする。
そして器が雫で満たされたとき、漸く気付くのだ。
選択をせまられていることに。
浄化の雫を落とし、漆黒の雫を昇華させるか。
新しく器を作るか。
人は感情を持つ動物だと誇示する。
本能のまま生きてはいない高尚なる生物だと。
だが、満たされた器から雫がこぼれた時、
本来制御するはずの感情にいつの間にか支配されているのだということに、
遅まきながら気付かされるだろう。
器にたまったものを浄化させるより、器を作り直したほうがはるかに簡単で楽だ。
なぜなら、自分の嫌なところを見ないですむから。
向き合わなくてすむから。
それ故、男は心の中に器をもう一つ設けた。
気持ちが幾分か楽になった気がして、その居心地を自ら受け入れた。
それが、単なる錯覚だとはつゆと思わずに。
目を閉じた闇から男は空を見上げた。
雲ひとつない、晴天の空を。
男の顔には先程までの苦渋な表情は見られず、すがすがしいまでにさわやかだった。
・・・それは、笑顔という仮面を手に入れた瞬間でもあった。
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