幸せとは何だろう。
幸福とは何だろう。
いつもと違う何かが起こることだろうか。
いつもと違う何かが起こらないことだろうか。
幸に出会うと器には桃色の雫が落つる。
「浄化」という不思議な力を有している雫がそっと落ち、闇を溶かす。
それ故、人はくじけても立ち直ることが出来、新たな活力を得られる。
人は幸せになりたいと願う。
幸福な日々を送りたいと祈る。
なかなか手に入らぬ幸をいつでも求めている。
しかし、本当は幸せというものはすぐ傍にあるものかもしれない。
不幸せだと言いつつ、幸せに気付いていないだけなのかもしれない。
だが、人間は欲のある動物。
蜜を手にしたら、もっと甘い蜜が欲しくなる。
今まで満足していたことに不満を覚える。
幸も不幸も目に見えない。
しかしもし瞳に映すことが出来たらならば、
それらは裏表に存在しているという事実に
気付くだろう。
神は人間に罰を与えた。
欲深き人間に。
真実を映す力を瞳に施さなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それ故、人は果てしなく幸せを求めている。
不幸せと背中合わせの幸せを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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朝、珍しく副長室から笑い声が響き渡っていた。
「ねっ?滑稽でしょ?」
「確かに、違いねぇ」
「笑」とは縁遠い土方が声を上げていることに対して、平隊士達は何がそんなに鬼副長を愉快にさせているのだろうかと、幾度もなく副長室に目を向けていた。そこが原田や永倉あたりの部屋であれば、部屋を訪れその話題に入り込めるのだが、こと副長室には鬼が住んでいるだけに近寄りがたく、気になりつつもじっと隊士部屋で耳を傾けているしかないのだった。
鬼の笑い声に、可愛らしい鈴の鳴るような声も混じっている。
朗らかで聞いている者まで幸せにしてくれるようなそんな笑い声。
セイが土方の小姓になってからというもの、接触する機会が極端に減ったが、それでもあの笑顔はいつでも誰でも気持ちを心地よいものへと変えてくれた。
真にセイは笑顔が似合う。
その笑顔が斬り合いで荒み易い心根を柔らかくほぐしてくれる。
隊士達は廊下へ詰め寄り、副長室へ耳を傾けた。
「これで、当分は楽だな」
「えぇ、本当に。健やかな日々が過ごせますね」
二人は何をそんなにも極上の笑みを浮かべ、幸せを噛み締めているのか。
「それにしても、内海先生って頼りになりますよね。伊東先生の奥方に先生の変態ぶりを事細かに書いて文に出すとは」
「あぁ、伊東の野郎もそこまで頭が回っていなかったみたいだ」
「でも、伊東先生、本当にびっくりなさったでしょうね。久しぶりに奥方から文が来たと思ったら、『男色に走った貴方が夫とは縁を切りたいとまで思っております』って、ただ一言書かれていただけなんて」
「まっ、当然の報いだな。あいつにまともな奥方がいたこと自体が驚きだが」
「内海先生から伊東先生の家の場所も教わりましたから、今度また変なことがあれば、副長も『新選組副長』として一筆認める事もできますし、本当に万々歳ですよね」
「おぉ、これで出会い頭の抱擁・風呂場での凝視・ほれ薬入りの煮物・早朝深夜の訪問・・・・・・挙げればきりが無いが、ともかくそれらとはおさらばだ」
「あの日、副長が伊東先生に鯉口切ったときはどうなることかと思いましたけれども、それを機にこうして内海先生が動いてくださったなんて、まさに災い転じて何とやらですね」
「今日からは、安心してゆっくりと風呂に入れる」
「今日からは、安心してゆったりと廊下を歩けます」
「あははははは」
「うふふふふふ」
・・・・・・というわけで、伊東の魔の手から漸く逃れられる見通しが付いたことに、土方・セイは笑いを止めることが出来ずにいたのだ。
第三者から見たら何だそんなことかと思われる内容だが、被害者両人にとってはまさに死活問題でもあったので、朝一番に内海からお詫びと共にこのことを知らされてからゆうに半刻は経とうとしている今でも、口元にしまりがないままなのである。
セイが小姓になってからというもの、副長室には「愛しの土方君と可憐な清三郎」が住まうことになり、伊東にとっては副長室に行けばもれなくほおずりしたい人物二人に会えるということで、今までの奇態ぶりがエスカレートしており、ほとほと困っていたところにこの展開である。
頬が緩みっぱなしになるのも致し方あるまい。
伊東を第二の養育者山南に託し、外出しようとした内海は鈴なり状態で廊下で人が溢れている隊士部屋を目にした。
何事かと問えば、副長室での笑いが気になるという。
苦労人内海は大きな大きなため息をもらした。
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雀が庭で戯れ、暖かな日差しが部屋に差し込んでくる。
今朝の朗報のこともあってか、土方・セイともにとても機嫌が良いようだ。
昼特有の心地よさに身を任せて、土方は一休みしている。
その傍では、セイが繕い物をしていた。
「神谷」
「はい」
セイは手を休め、お茶を注ぎ、土方に手渡す。
名を呼ぶだけで何を欲しているのか分かるというのは、何だか熟年の夫婦のようで土方はこそばゆくもあり、嬉しくもあった。
最もセイは小姓としての当然の仕事をしたまでと認識している。
だが今はまだそれでよいと土方は思っていた。
セイの心の中には誰が住まっているのか憎らしい程理解していたのもあるが、それでも急く気にはなれなかった。
女に対して自分はこうも奥手だっただろうか。
そんな想いを茶と共に腹に収めた。
おかわりは?というふうに、目を合わすセイに首を横に振る。
にこりと微笑んだセイは、再び視線を下に落とし、針を動かし始めた。
一針、一針、波を描くような滑らかな動き。
端までくると、可愛らしい口元に縫い目を近づけ、プチンと糸を切る。
「ふぅ、ほら、漸く袖は何とか形になりましたよ」
縫っていた右袖を広げて見せた。
昨夜、一戦交えて遅くに帰営した土方をセイは寝ずに待っていた。
曰く、「上司より早く床に就く部下がどこにいるんです?遅くなるなら、遅くなると前もって言ってくださってもいいじゃないですか!」
頬を膨らませつつも、自分の身を案じ怪我をしたところが無いかしつこく尋ねてくる。
たいしたことは無いと何度も言うのだが信じてくれず、しかたなく腕と膝に数箇所ほんのかすり傷だけと告げると、セイはじっとその場所を見つめ、ほっと息をついた。
「たいしたことなくて良かった・・・・・・」
「だから、さっきから俺はたいしたことねぇと何度も言ってるだろうが」
「だって、副長の『たいしたことねぇ』は『たいしたことある』の場合がほとんどじゃないですか」
「上司の言うことを素直に解釈しやがれ」
「はいはい、その上司が素直な上司だったらそのように致しますけれどね。・・・・・・ほら、その衣脱いでください」
「あん?」
「衣を脱いでと言ったのです。そのままじゃ、どうしようもないでしょ。明日、繕いますから」
「・・・・・・べっ、別にいい・・・・・・」
「何が『別にいい』ですか。そのほつれを直さないと今度着ていけないでしょ。あっまさか、捨てる気じゃないでしょうね、勿体無い。これぐらい、何とかなりますよ。今日はもう休まれるんでしょ。ほら、とっとと寝巻きに着替えてください」
いつまでもセイが睨み付けてくるので、しぶしぶ衣を差し出すと、「無事で本当によかった」としんみりとした言葉が返ってきた。
声を荒げる気が削げた土方はただ一言「心配させた」とだけつぶやいた。
「あとは、裾のところですかね。返り血を浴びないためによけたのいいですけれど、それがもとでこんなにほつれるとは・・・・・・。余程無茶な体勢をとられたんですね」
「・・・・・・五月蝿い」
「すみませんが、ちょっと袖を通して下さいますか。調整したいので。多分大丈夫だとは思うけれど・・・・・・、両腕を動かしてみてください。変につっぱるところとかありませんか」
「ふむ」
「大丈夫ですか」
「あぁ」
「では、すみませんが、もうしばらくそのままで」
立った土方の周りに座り込み、裾の調整をし、まち針をつけてゆく。
「あぁ、動かないでください。足に針がささりますよ」
表が急に騒がしくなった事に気をとられ身じろぎした途端、諌められた。
「ごめんなさい。あともうちょっと・・・・・・」
セイは少し離れ、全体的なバランスを見てから「よし」と頷いた。
「もう結構です。あとは縫うだけですから。・・・・・・表が気になりますか?」
顔を縁側へ向けたままの土方を肯定の意と受け取ったセイは、
「では、私、様子を見てきましょう」
と、腰を上げた。
「土方副長」
廊下から声が掛かる。
セイが「副長」ではなく「土方副長」と呼ぶときは、仕事について話し出すときだ。
「京都奉行所の方々がお見えになられております。近藤局長に御用がおありとのこと。局長の不在を伝えましたら、ならば土方副長に是非にと」
障子を開けると、セイが平伏していた。
「奉行所?用件は?」
「はい、それが・・・・・」
そこまでいうと、セイはプイっと顔を背けて荒々しく部屋に足を踏み入れた。
「副長に直接お話なさりたいそうですよ!」
「何をそんなにむくれてる」
「知りません!」
「ははっ。また、お前、童扱いされたな」
図星なのかセイの顔はますます紅潮した。
小姓ということで、外部からの連絡を土方に取り次ぐのは主にセイの役目なのだが、まだ前髪で男にしては可愛らしすぎる容姿のためか、役人や客人からいっぱしの隊士扱いをされないことが今までに何度もあった。
「知りませんってば!とにかく、客間にお通ししてありますのでお急ぎください」
土方は苦笑する。
廊下へと足を向かわせたとき、クイックイッと袂を引っ張られた。
セイが意味ありげに客間に視線をやり、ぷっくりとした口をとがらせている。
どうやら相当虫が好かぬ相手らしい。
たまにいるのだ。
新選組は今でこそその名を轟かせているが、所詮は身分の低い者の集団と見下している者が。
そういう者は、意図してだろうか随分とぞんざいな態度をとってくる。
それは、セイでなくても誰もが辟易していることだった。
土方は頬を膨らませているセイの頭をくしゃりと撫でた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
随分と話し込んでいるらしい。
結構経つのに、まだ土方は戻ってこない。
(何か厄介なことが起きていないといいんだけれど・・・・・・)
少し前までは、水面下で活動していた長人達も、最近は随分と大胆な行動を起こすようになった。
それだけではない。
言葉の訛りから判断して、長州藩以外の西国藩士も随分と京に入り込んでいる様子だ。
一番隊から離れて久しい故、現状把握がいまいち掴めきれないのだが、それでも緊張感は町を歩けばひしひしと伝わってきた。
こういうとき、小姓という役はじれったくて仕方が無い。
振り替えってみれば、小姓になって約一月の間、土方のお供で外出した以外思い当たらなかった。
壬生寺で子供たちと最後に遊んだのも、もう随分と前のことだ。
外出が減る、それすなわち、死への危険が遠ざかる。
土方なりの気遣いなのだろうかとセイは今更ながら思った。
気遣いといえば、いつの間にか、どこからか屏風を持ってきて、朝の着替えの時もお互い変に意識することなく行えている。
この間などは、元服をせぬかと声をかけられた。
元服といっても前髪を剃るわけではなく、月代をなくせということらしい。
考えてみれば、幹部達でも本来あるべき髪型をしているのは斉藤ぐらいだ。
「男のなりをするのは結構だが、そこまで真似なくともよい」
月代を撫でながらそう言ってきた。
確かに髪を切る時には覚悟がいったし、全くのためらいがなかったといえば嘘になるが、一度この姿に馴染むと案外こちらの方が性に合っているのではと、本当のところ思っている。
元服するには可笑しくない年頃だが、自分には身寄りはなく後見人もいない。
土方に女子だと露見した今、男の姿を偽る必要はないのだが、それでも今の姿の方が都合が良いと思えた。
せっかくの申し出を丁重に断ったのだが、家族がいないという自分に「近藤さんと俺が代わりにしてやる」とまでいってくれた土方の心遣いは、とても嬉しく、心温まるものだった。
そういえば、最近土方とは喧嘩らしい喧嘩をしていないように思う。
喧嘩ばかりしていては仕事が勤まらぬというのもあるが、始終一緒に生活をするようになって、土方という人間性が見えてきたことが大きな要因かもしれない。
確かに憎らしい物言いはしてくる。からかってくる。立場が立場なだけにこちらがぐっと引かねばならぬことが多々ある。
しかし、それを差し引いても、以前より土方に対する印象は良いものへと変わっていた。
「土方さんって、本当に可愛いですよね」
「大好きですよ、鬼副長」
・・・・・・以前耳にたこが出来るほど聞かされた言葉が今では素直に頷ける。
「ふぅ・・・・・・」
セイはコロンと横になった。
畳の匂いが鼻に届く。
何ともなしに天井を見遣った。
いつの間にか土方のことで埋め尽くされていた頭をフルフルと振って、セイは恋しい男の顔を思い浮かべる。
ここのところ、廊下ですれ違うときぐらいしか会っておらず、会話も挨拶程度にとどまっていた。
忙しいのか、めったに副長室には遊びに来ない。
(お話したいけど・・・・・・やっぱり無理かなぁ・・・・・・)
総司に非番はあっても、自分に非番は無い。
かといって、土方が働いているのに自分だけ休みが欲しいともいえない。
(もう何日も沖田先生の顔を見ていないもん。声すら忘れてしまいそう。今頃、何しているのかなぁ、沖田先生・・・・・・)
何度目かの寝返りをうったとき、足音が聞こえてきた。
慌てて身を起こし、些か乱れた髪を整える。
漸く土方が帰ってきたらしい。
だがセイの耳に届いたのは・・・・・・。
「神谷さん」
何日ぶりに耳にしただろう。
土方よりやや高めの陽気な声。
「神谷さん」
胸の高鳴りを感じつつ、そっと目を閉じてみる。
ずっと聴きたかったその声。
心がざわめく。ときめく。抑えきれない。
「あれっ、神谷さんいないのですか」
障子に頭をポリポリ掻いている姿が映し出される。
「はっ、はい!います!ここにいます!」
・・・・・・・・・・スー・・・・・・・・・・
ゆっくりと開けられた障子の向こうには、逢いたくて逢いたくて仕方が無かった人が確かにいた。
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